くちびるララバイ
ただいま、と疲れ切った声で呟く弟を出迎えに玄関へ向かうと、ドイツは眉間に深く皺を寄せてふらふらとプロイセンに近付いてきた。おかえり、おつかれさん。いつもと同じ言葉をかけてやりながら頬にキスをすると、ドイツは額をプロイセンの肩に乗せて、つかれた、とだけ小さく落とした。己の肩口に顔をうずめる弟の背に腕を回し、ぽんぽんと軽く叩いてやる。
「うん、お疲れ。今日もちゃんと頑張ったな、えらいぞヴェスト」
ドイツもプロイセンの背に腕を回し、無言でぎゅうぎゅうと抱き返す。にいさん、にいさん、と子供が甘えるような声で何度も自分を呼ぶ弟に、プロイセンは苦笑した。でっかくなっても、やっぱガキだなあ。くすくす笑いながらそう零して、きつく抱きしめてくる弟の大きな体を引き剥がした。
「はいはい、甘やかすのは後でな。メシできてっから、先に着替えて来い」
少し恨めしげに見つめてくる目を無視して、その背中を押してやる。疲れを隠そうともしない後姿を見送って、ため息をついた。
配膳の済んだテーブルについたドイツはやはりどこかぼんやりとしており、余程疲労が溜まっているのだろうということが容易に窺い知れた。プロイセンの用意した食事を口に運びながら、何度もため息をつく。重たそうなまぶたは何度も落ちかけ、その度にドイツが手の甲で目をごしごしと擦って何とか閉じきってしまうことは防がれていた。
ついてる、と手を伸ばし、向かいに座る弟の口元についたソースを指で拭う。プロイセンがその指についた、バジルの香りのするソースを舐めながら弟の名を呼んでやると、ああ、うん、と気のない返事だけが転がり落ちた。
「疲れてんなあヴェスト。片付けは俺がやるから、食べ終わったら寝ちまえよ。明日は休みだろ? ゆっくりたくさん寝とけ」
「……ん、」
やはり聞こえているのかいないのか定かではないような返事だが、プロイセンがそれを咎めることは無かった。返事は大きな声ではっきりと。幼いころからそう教えてきたが、何事にも特例は存在する。疲れきってぼんやりしている弟にそれを強いるほど、プロイセンは厳しくなれなかった。兄の教えは絶対だが、何よりも大切なのはおまえ自身だ。そう、教えてきた。
食事を終え、片付けようとする弟を制してプロイセンが皿をその手から取り上げる。食べてからすぐ寝ては消化に悪い、としばらく椅子から立ち上がることを禁じ、手伝おうとそわそわするドイツを無視してプロイセンはテーブルの上を全て片付けてしまった。ソファーに座るよう命じ、それに大人しく従う弟を背中越しに褒めながらプロイセンはキッチンに引っ込んだ。皿洗いを済ませてリビングに戻ると、案の定と言うべきか、ドイツはソファーの背もたれに深く体重を預けてまぶたを閉じていた。
足元に犬が一匹、膝の上に猫が一匹、ドイツを温めるように寄り添う姿が微笑ましく、プロイセンはちいさく笑った。寝かせておいてやりたい気持ちは十分あったが、ここで寝てしまっては体に良くない上に疲れがとれるはずもない。手のひらでドイツの頬をぺちぺちと叩いて、何度か名を呼んでると、まぶたが僅かに浮いてその奥に青い色が見える。
「ん、……ん」
「寝るならベッド行け。風邪引いちまうぞ」
「んー……」
「んー、じゃねえっての」
まぶたが開いてぼんやりとした目がプロイセンを捉えたものの、まだ意識は眠っているらしい。ドイツは意味を形作らない音を喉の奥から出し、まばたきを繰り返す。きんいろの睫毛が空気を縦に裂き、ぱたぱたと音が鳴るような気がした。
ベッドで寝ろ、というプロイセンの言葉にドイツは首を横に振り、シャワー、とだけ呟いて大きなあくびをひとつ。あくびのせいで滲んだ涙をシャツの袖で拭いながら体を起こし、よたよたとバスルームに向かうドイツの後姿は危なっかしくて仕方がなかった。
普段、しっかりと背筋を伸ばし、大股で歩く姿からは中々連想しにくい格好だろうな、とそれを見送る。情けなく丸まった背も、よたよたと覚束ない足取りも、プロイセンは何度も見てきた。しっかりしろ、と叱咤したこともあれば、頑張れ、と励ましたこともある。その度にドイツは歯を食いしばって地を踏みしめ、まっすぐ歩いた。今は叱咤や激励をしなくとも、ふらふらしながらなんとか一人で歩けるまでに強くたくましく育ったことを、プロイセンは誇りとしていた。
でも、やっぱ弱っちいなあ。困ったように笑いながら、プロイセンは先程までドイツが座っていたソファーに腰を下ろす。猫がもう一匹寄ってきて、白い猫と黒い猫は身を寄せ合うようにソファーの上で丸くなった。白い猫の頭を指の背でくすぐるように撫でてやると、猫の舌がざりざりとその指先を舐める。頭や耳の後ろ、首筋をさすって遊んでやり、猫の舌や前足がその手を追いかけてきた。そうしているうちに、プロイセンは黒い猫のじっとりと恨めしげな視線に気づく。そちらの猫も撫でてやろうと手を伸ばすと、尻尾でぱたりと腕をはたき落とされた。にぃ、と普段より低い鳴き声で、黒猫はプロイセンをじっとりと見つめた後、白い猫の首元や頭を舐めて毛並みを整え始めた。嫉妬か、おまえの兄ちゃんと遊んだ俺が気に食わねえのか。黒い猫の狭い額をぐいぐいと指で押してやると、猫はプロイセンの指先に噛みついた。やわらかく歯を立てられた皮膚に痛みは少なかったが、しかし今度はその腕に白い尻尾がぺしぺしと当たってきた。こちらも嫉妬しているらしい。
猫と指先でじゃれていると、ゆるやかな足音がこちらに近付いてくることに気付いた。きっちりと整髪料で整えられていた髪は濡れてぽたぽたと水滴を落としており、プロイセンは慌てて弟に駆け寄った。手にぶら下げているだけのタオルを強引に奪い取り、がしがしと髪を拭う。
「あーあー、何やってんだよ。ちゃんと髪を乾かせっていつも俺に言ってんのはおまえの方だろ」
自分より数センチ身長の高い弟に目線を合わせるため、プロイセンはつま先を伸ばして背伸びをしながらタオルで弟の髪を拭う。短い金髪の水滴を乱暴にタオルに吸わせ、顔を覗き込んでやると、数センチしかなかった距離がぐっと近付いて消える。プロイセンの唇に弟の唇が触れ、同時に両手がプロイセンの腰に回された。帰ってきたときと同じ構図である。
「こら、ヴェスト、いたずらしねえの」
慌てて弟の胸元を押してその腕から逃れようとしたが、思ったよりもしっかりと抱きしめられていてそれは叶わなかった。顔を背けてなんとか唇を離させることには成功し、尚も追いかけてくるドイツの唇に手のひらを押し当てて抵抗を示した。指の腹にあまく歯を立てられ、僅かな痛みにプロイセンはため息をつく。
「あーもう、噛むなよ馬鹿わんこ。いてえ、あー……くそ、こら、舐めるのもダメだっつの。しまいにゃ襲うぞアホヴェスト」
「そうなるよう仕向けているのだが」
「ほーう? お兄様を操ろうたぁ、なかなかいい根性してんじゃねえか」
ひく、と頬を引き攣らせるプロイセンの手のひらに、ドイツが舌を這わせてくる。慌てて手を引っ込め、プロイセンは腕を突っ張ってドイツのホールドから抜け出そうともがくが、やはり弟の両腕の力は強く、脱出は容易ではなかった。
「あーもー、アホみたいに疲れてるの丸出しな弟に手ぇ出すほど、おにーちゃんはケダモノじゃねーっつの!」
「では俺が手を出すか?」
「バカみたいに疲労むき出しの弟に襲われるほど、おにーちゃんは甘くねーよ。ほら、大人しく寝ちまえって」
む、と唇を尖らせる弟の表情は、一目見ただけでは分かりにくいが、明らかに拗ねたときのものだった。ドイツは生真面目で厳格で面倒事を背負い込みやすい性格をしているが、兄であるプロイセンに対してはひどく幼い態度をとることが多い。親に甘える子のように、恋人に甘える恋人のように、わがままを言ってみせたり、現在のようにべったりとスキンシップを取ってきたりする。甘ったれめ、と苦笑してそれを抱きとめてしまうのだから、自分もつくづく弟には甘いとプロイセンは自覚していた。
プロイセンは、弟であるドイツの扱い方をよくよく心得ており、拗ねたときの対処法もある程度心得ている。プロイセンがドイツに甘いように、ドイツはプロイセンに弱いのだ。それも、この上なく。
「ヴェスト、良い子だからベッドに行きなさい」
僅かに声のトーンを落とし、自分を抱きしめてくる弟に腕をまわしてその背中をとんとんと叩く。ぐずる子供をあやすような手つきでゆっくりとリズムを打ってやると、ドイツは唇を曲げたままプロイセンの肩口に顔をうずめた。にいさん、とちいさく呟く声がする。
「うん、いい子いい子。おまえが俺のこと大好きなのはちゃんと知ってるから、そう焦るなよ。おにーちゃんはヴェストのわがまま全部聞いてやりてえけど、それでおまえが体壊したりなんかしたら、俺様どうしていいか分かんなくなるだろ」
「……だが、」
「ヴェスト。あんまおにーちゃんを困らすなよ」
言い募ろうとするドイツの言葉を遮り、プロイセンはドイツの髪をくしゃくしゃと撫でる。うう、と呻くドイツの乾きかけの短い金髪を撫でながら、プロイセンは駄目押しとばかりにゆっくりとやわらかい声音で弟の特別な名を呼んだ。ヴェスト、と、プロイセンにだけ許された名だ。
「いま、おにーちゃんの言うことを聞いて大人しくベッドに入るなら、特別におやすみのちゅーをしてやるぜ」
ぴくん、とドイツの肩が揺れた。
「しょうがねえなあ、更に大サービスだ。久しぶりに子守唄も歌ってやるよ。おまえが寝るまで、ずーっと傍にいてやる」
「寝るまで、だけか?」
ぎゅ、とプロイセンに抱きつき、プロイセンの肩に額を押し当てたままのドイツがくぐもった声で伺いを立てる。伺う、という形での、わがままだとプロイセンには伝わった。
「くそ、分かった分かった、一緒に寝てやる」
ドイツが額を押し付けてくる方に頭を傾け、こつん、と金髪に銀髪を重ねた。途端、それまでてこでも動かないだろうと思えるほどがっちりとプロイセンに抱きついていた両腕をほどき、ドイツはプロイセンの手首を掴んで大股で寝室に向かい始めた。
たんじゅん。弟の背中を眺めて小声で呟くと、うるさい、と開き直ったような声が飛んできた。
大きめのベッドに成人男性がふたり。傍から見たらおそらく奇妙な光景であるのだろうが、生憎、プロイセンとドイツにとっては比較的よく見られる光景であるため疑問が生じることは無かったし、兄弟がふたり、おなじベッドで眠る不自然さを指摘する者もこの家にはいなかった。
ベッドサイドのスタンドライト以外の電気を消し、毛布をしっかりと肩まで掛け、さて子守唄でも歌ってやろう、とプロイセンが口を開いたところで、それはドイツによって止められる。なんだよ、と少し不満げに弟を見やれば、ドイツのほうが不満そうな顔をしていた。キス、と短く文句を言われ、プロイセンはくすくすと笑ってドイツの額に唇をつける。髪はすっかり乾ききっており、撫でるとプロイセンの指の隙間をするりと抜けていった。
兄さん、と咎めるような声がして、プロイセンは苦笑する。ドイツの不満顔の意味を分かっていて、ドイツの欲求からはわざと外れた場所にキスをしたのだから自分も性格が悪い、と思った。改めて唇に触れるだけのキスを一度、頬に一度。それから、もう一度唇を触れ合わせて今度は深く貪った。ん、ん、と苦しげな声が漏れるまで舌を絡めあわせ、唇を離す。無意識だろうか、舌を伸ばしてプロイセンの唇を追うドイツの額を指で押し、羽のたくさん詰まったやわらかい枕に沈めた。
「はい、今日はおしまい。おにーちゃんとの約束を守って、ちゃんと寝ようなー」
む、と先程と同じ、拗ねた唇の尖らせ方をするドイツの頭を撫で、プロイセンは毛布の上から弟の腹の辺りをやさしく叩き始めた。ゆっくりと唇を開き、穏やかに喉を震わせて音を紡ぐ。ドイツが幼いころ、どうしても眠れないとぐずったときに良く聞かせていた歌だ。昔から、この歌を聞かせるとドイツはすぐに眠ってしまう。とん、とん、とん。ゆるやかに、心臓の鼓動と同じくらいの速さでリズムを打ちながら、その拍子に合わせて歌う。ドイツのまぶたは重そうにどんどん下がり、透明なあおい瞳は次第に隠れていった。
しばらく、どれほど経っただろうか。ドイツのまぶたは下がり切り、うすく開いた唇からはすうすうと一定の間隔で繰り返される穏やかな呼吸が漏れていた。
「ヴェスト、寝たか?」
囁くように空気を多く含んだ声で問い、返事がこないことに安堵のため息を漏らしてプロイセンは歌を止めた。眉間に皺の跡が浅く残っており、そこを指でなぞるとドイツがくすぐったそうに身じろぐ。手を引っ込め、代わりに唇でその跡に触れてから、プロイセンは部屋の中で唯一の光源となっているスタンドライトのスイッチを切った。自らも毛布を肩まで被り、自分よりもいくらか体温の高い弟の体に寄り添うように距離を縮めてから、プロイセンも目を閉じる。
おやすみ、ヴェスト。呟いた言葉は真っ暗な部屋をくるりと回り、天井に吸い込まれていった。
END.
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兄さんに対してのみ超絶甘ったれスキルが発動するドイツさんとか可愛い。
弟に対してのみ超絶おにいちゃんスキルが発動する兄さんとか可愛い。
一人称「おにーちゃん」兄さんブーム継続中。