消える灯




 暗い森の奥に、それはあった。
 人の目を逃れるようにひっそりと佇む城。いや、城と呼んでしまうにはあまりに廃れ、鄙びている。しかしそこはその昔確かに城であり、王がいて、多くの人がいた。
 しかし今、その城に住むのはたったふたりの兄弟だけ。
 壁には植物の蔦がびっしりとはびこり、もはや元の色が分からないまでに褪せてしまっている。植物が鬱蒼と茂り、城までの道を阻んでいるように感じられた。
 俺はそうやって人の侵入を拒むがごとき、名も知らぬおぞましい植物を踏み倒し、城へと向かった。ギィ、と錆びた音を立てて俺を迎える門をくぐり、城の中へと入って行った。
 暗く湿った空気。黴臭いような妙に饐えたにおいと、やけに生活感のあるにおいが同時に漂う不思議な空間だといつも思う。
 カツカツと音を立て、石の階段を踏みつけて地下へと降りていく。暗い階段には申し訳程度に燭台があり、それに立てられた蝋燭が今にも消えそうなともしびを揺らめかせていた。
 肩に担いだ荷物が僅かに身じろぐ。あまり騒がれても迷惑だと思い、眠らせてあるソレを刺激しないよう出来るだけゆっくりと階段を下りた。蝋燭の明かりは、もうほとんど何の役目も果たしていない。けれど闇に強いこの目は、なんら不自由を訴えることはなかった。
 普段より慎重に扱ったためか、俺の苛立ちは頂点に達しようとしていた。久しぶりの豪勢な食事に、いくらか気を遣いすぎたようだ。
 地下室に入るなり、担いでいた荷物を地面に叩きつけるようにして降ろす。ぐぅっと醜い呻き声。急激に覚醒する意識についていけないのか、ソレはしばらく目をしばたたかせていた。ようやく己の置かれている状況が異質であることを認識したようで、目を見開いて俺を見上げる姿は滑稽でもあった。

 今日のソレは、女だった。
 夢に浮かされたような、おぼつかない足取りで森をふらふらと彷徨っていたところを捕え、ここまで持ってきた。細くやわらかで、ゆるやかなラインを描く体。赤っぽい茶髪がゆるくウエーブし、ああ、女というのはどうしてこうも曲線で構成されているのだろうと思った。
 ぎっちりと縄で縛りつけた両腕が赤く滲んでいる。人間はどうしてこんな脆弱な縄一本で身動きが取れなくなるのか、不思議で仕方がない。
 腕と足を縛られただけで芋虫のように蠢く美しい女。それの細くくびれた腹部めがけ、俺は足を落とした。悲鳴。女の悲鳴は甲高くて、実に心地いいものだった。
「どうした、どこか痛いのか?」
 ツイ、と唇を吊り上げて笑って見せる。女の顔が恐怖に引き攣り、細い体はがくがくと震えだした。
 柔らかな乳房につま先を乗せ、ぐりぐりと踏み躙った。痛みと屈辱に、女の大きな両目からぼろぼろと水滴が落ちる。
「かわいそうに、泣いてしまうほど悲しいのか。……その悲しみも、じきに終わる」
 女の美しい顔、頬の辺りに靴を移動させる。大した力を入れた覚えはないのだが、女の美しい顔はぐにゃりと醜く歪み、足の下から嗚咽が聞こえた。醜い。けれど、なんて美味そうなんだろうと思った。
「どう調理しようか。爪の間に一本一本針を通す? それとも目玉に塩を塗り込んでやろうか。よくしなる鞭で叩いてやるのも楽しそうだな……ああ、生きたまま腕を擂り潰すというのもいい」
 くつくつと笑い、俺はおとぎ話を語るように女に語りかけてやる。
「やはり鞭がいいか。長い鞭には鋭い刃が無数に取り付けられていてな、一振りごとに肉が削げて、じきに骨も見えてくる。前のやつはすぐに死んでしまったが、……ああ、おまえもそう長くはもちそうにないな」
 そうすると、女の口からは命乞いが漏れるようになった。たすけて、やめて、ころさないで。今まで何度も、何十年も、何百年も、聞き続けた言葉だ。
 俺は途端に機嫌が悪くなるのを感じた。聞き飽きた言葉を毎度毎度聞かされる苛立ち。身勝手なものであるとは分かっていても、不快になるものはなるのだから仕方がない。
 女の顔を蹴り飛ばし、先程俺が踏んだために赤くなっている腹部に、再び足を振りおろす。
 足の裏でがつがつと腹を踏んでいると、鈍い音がする。女のあばらが折れたのを感じた。内臓も痛めてしまったのか、女は白目をむいて口から泡と血を垂れ流して失神している。少し焦りを感じたが、まだ死んではいないようなので安堵した。
「……兄さん、いるんだろう」
 照明がほとんど機能していない薄暗い部屋の、更に暗い場所。闇そのものに近い影に、俺は声をかけた。影は一瞬ためらうような気配を見せ、すぐにゆらりと揺れて形を作る。
 つややかな銀の髪。病的なほどに罪を匂わせる赤い瞳が、戸惑うように細められた。
 責めているのか、俺を。

 彼は俺の兄で、昔からこの城に住んでいるのだという。俺はその頃の記憶は曖昧にしか存在せず、はっきりと覚えているのは、俺達の頂点に君臨して高笑いを迸らせる彼の姿のみだ。
 俺達は、生きた人間の血を啜り、人間よりも遙かに長い年月を生きる化物だ。その頂点として栄華を誇った兄は今、俺と二人きりでこの暗く汚い城で暮らしている。理由は知らない。知ろうとも思わない。兄さんがいて、俺がいる。それだけで、俺がこの世界に存在する理由は十分だった。
「ヴェスト、またか」
 うんざりしたような顔で溜息をつく兄さんに、俺は眉根を寄せた。かつかつと兄さんとの距離を縮め、俺は兄さんの胸倉を乱暴に掴み上げる。
「文句があると言うのか? ならば見なければいい。兄さんがこんなところを見る必要はないんだ、あっちへ行ってくれ。……頃合いになったら呼ぶから、そうしたら二人で極上の美味を味わおうじゃないか」
 俺が『食事』の前にソレ……『食材』を痛めつけるのには、理由がみっつある。
 ひとつは、単に血を啜るよりも恐怖や苦痛を与えた方が甘美な味わいを楽しむことができるから。
 もうひとつは、ただの俺の趣味だ。
 苦痛にうめく声が、恐怖に歪む顔が、おそれおののき、俺をばけものだと罵る声が、たまらなく愛しく思えるのだ。
 そんな俺を、兄さんは疎ましく思っているらしい。普段は「俺の可愛い弟」「俺だけの大切なヴェスト」などと、聞いているこちらが恥ずかしくなるような甘ったるい言葉で俺をとろけさせ、腕の中に抱きしめてくれる。けれど、俺がこの『食事の支度』をするのが気に入らないらしく、いつも複雑そうな顔で兄さんは俺を見送るのだ。
 そうして俺が帰る前に、俺がいつも『食事の支度』をする地下室の影に潜み、そうして冷やかな目で俺を見る。くだらない。おぞましい。おそろしい。あさましい。今にもそう口走りそうな顔で、俺を見ていた。
「見届けるよ。……お仕置きも、してやんなきゃなんねえしな」
 皮肉っぽく歪められた口元に、俺の背筋がぞくりと震えた。
 そして、理由の最後のひとつは――

「ん、……ッぐ、ぅ…」
 砂漠を迷い続けた人間がようやくオアシスに辿りついたときのように、それはそれは美味そうに喉を鳴らして人間の生命を啜る兄さん。
 兄さんはほんの少ししか血を飲まない。嫌なのだそうだ。『命を奪うのはもう飽きた』、兄さんはそう言う。だから兄さんは時折ふらりと街に出て、体力のありそうな若い男を眠らせてはほんの少しだけ血を盗むように吸って帰ってくる。若い男の血ほどまずいものはないというのに、それでも兄さんは人間の命を奪わず生きている。
 だが、もとは化物の頂点に坐していた男。その程度で満ちるはずもない。俺がこうして若い女を持ってきて、悲鳴と苦痛と恐怖を引き出してやると、兄さんは光に誘われて炎に飛びこむ蛾のようにふらふらとこちらへ吸い寄せられる。俺が『調理』した餌の、かぐわしい香りに抗えないのだろう。可愛らしい人だ。
「ァ……う、ぅ゛ッ」
 赤い目は閉じられ、白い牙が女の白い首筋に突き立てられている。流れる若々しい生命を搾り取るようにそこに吸い付く兄さんは、うつくしかった。
 苦しげに寄せられた眉根。眉間には皺が寄り、それなのに勝手に体中を駆け廻る恍惚に逆らえずうっとりと声を漏らす。美しい兄さん。その姿を、いつまでも見つめていたかった。
 しかし、このままでは兄さんが餌の血液を全て吸いつくしてしまうと思い、俺は女の長い髪を乱暴に引っ張って兄さんから引き剥がした。ぶちぶちと嫌な感触が手に伝わる。少々乱暴すぎたのか、俺の手にはごっそりと抜けた女の赤みがかった茶髪が絡まっていた。
 それを振り落とし、ついでに女も床に叩きつける。
「兄さん、俺の分が無くなってしまうだろう」
「っあ、……悪い」
 気まずそうに視線をそらしてしまう兄さんの、ふるえる長いまつげに目を奪われた。美しい。
 まだかろうじて生きている餌が、うつろに開いた眼球で俺を見上げた。恨み、悲しみ、恐怖。そんなものが色濃く浮かぶ瞳に、なぜか腹が立った。
 俺は壁に掛けてあった美しい装飾の剣をとり、すらりと鞘から引き抜く。ほとんど光源のない部屋のなかでも、刀身は美しく光っていた。しかし、その銀色も、兄さんの髪の色には敵わない。神に疎まれ、悪魔にも嫉妬されそうなそのきらめく銀髪は、世界の何よりも美しいものであるに違いない。
 その剣の切先を、女の目元に向ける。兄の不審そうな声がしたが、俺はそれに構わず、尖った剣先を女の眼窩に埋め込んだ。
 悲鳴が迸る。兄さんにあれだけ命の源を吸われて尚その声が出るとは、人間はもしかしたらとてつもない生命力をもった生き物なのかもしれないとも思った。
 発狂したように上がる悲鳴に喉が裂け、女の口からまた血が流れる。
 一度剣を引き抜く。片方の眼窩から潰れた眼球がはみ出している醜い女の、もう片方の目玉は白目を剥いていた。そのおぞましい女をもう見たくなくて、俺は片手に握った剣を振り上げて女の首を刎ねた。ぶしゅ、と血が噴き、女のすぐ近くに座り込んでいた兄さんが赤く染まる。
「ヴェスト、……なに、して」
「これはもう必要ない」
 吐き捨てるようにそれだけ言い残し、俺は再び腹を満たす餌を求めて城を出ようとした。
 しかし、
「……待て」
 躊躇いがちな、けれど反抗を許さない重たい声がした。
 ぞくぞくと背筋が震える。兄さんに背を向けたまま、唇が緩んでしまうのを感じた。歓喜、そう、まぎれもなく、俺は喜んでいたのだ。
 表情を引き締め、出来るだけ緩慢に振り向いた。兄さんは苦々しい顔つきで俺を睨み、血の交じった銀髪を掻いてからゆっくりと立ち上がって俺との距離を狭める。
 俺の腕を掴む手を、一度は振り払った。触らないでくれ、俺は腹が減っているんだ。そう睨みつけて再び外へ向かおうとした俺を、兄さんはまた引きとめる。今度は腕を掴むなんて生温いことはせず、首根っこを引っ掴んで強引に引き倒した。
 首のない女から流れる血が、固い床に小さな池を作っている。そのすぐ傍に倒され、俺は顔をしかめた。
「……離せ、兄さん」
「断る」
 がぶりと喉に噛みつかれ、兄さんの舌が俺の喉仏のあたりを舐る。闇に紛れるほどの黒い服を、化物の力で乱暴に引き裂かれた。露わになる白い胸に、兄さんの爪を立てられぎりぎりと引っ掻かれた。
 俺の上に跨って胸板や脇腹を鋭い爪の先でなぞる兄さんを、ぎろりと睨み上げた。その口元には皮肉な笑みが浮かんでおり、ひどく嗜虐的に見える。うっとりとした溜息が洩れそうになるのを必死で堪えて、俺は兄さんを押しのけようと形ばかりの抵抗を見せた。
「やめろ、……兄さん、どけ。どいてくれ……ッ!」
「断るっつってんだろ」
「ッん゛! ぅ、う゛ーッ!」
 口の中に、兄さんの指が捻じ込まれた。兄さんはいつも白いつややかな手触りの手袋をはめており、今はそれが血に汚れていた。その汚れた指が、俺の口の中をほじくるようにぐいぐいと押し込められる。喉の奥に触れそうになり、俺は目を見開いてえずいた。
 僅かに血の味がする。兄さんの手袋にしみ込んだ、あそこで血だまりを作り出している女の血だ。兄さんの体には降り注いだ女の血がたくさん付着しており、髪からもぽたりと赤い水滴が落ちた。
 俺の口から指が引き抜かれ、俺の唾液を吸った白い手袋は脱ぎ捨てられて放り投げられた。血だまりに投げられたため、純白であったそれはみるみるうちに血を吸って赤く染まっていく。あかく、あかく、美しい白は今や鮮血に犯されていた。穢された清らかなまでの白が、兄さんと重なった。
「ヴェスト……わるいこだ、ヴェスト。俺は言ったよなあ、むやみに人を痛めつけるなって、殺すなって。どうしてそれが守れねえんだろうな、ヴェストは。だめな子だ、なあ俺の可愛いヴェスト」
 歌うように、兄さんは俺の耳元に唇を寄せて囁いた。
「わるいこ。俺の言うこと、ちゃぁんと聞けねえなんて……本当に、わるいこだよヴェストは。口で言っても分かんねえんだもんな」
 パシッ、と軽い破裂音。頬を張られたのだと気付くのに数秒を要した。時間差でじわじわと沸き上がる痛みに、ああ、これが人間だったなら叩かれたことに気付く前に首が捻じり切れていたのだろうなと思った。

 兄は、俺が人間を殺すと俺を抱く。
 昔の王の面影を見せて、無理矢理に俺をねじ伏せて犯すのだ。そうすると俺がしばらく人間を捕りに行くのをやめるからなのだろう。
「は、ッあ゛ぁ、あーっ!」
 うつぶせで腰だけを上げる屈辱的な体勢をとらされ、俺は兄さんに犯される。血液でぬるつく指でぐじゅぐじゅと俺の腹の中を探る兄さんの手つきは、ひどく乱暴だった。埋め込んだ指でぐにぐにと腹の中を探り、内臓の襞越しにへその裏側に触れる。ごりごりと容赦なく擦られる器官から走る愉悦が、俺の理性を奪っていった。
「っひぁ゛ぁァッ! あ゛ッ、あ゛ぁー……っ、う゛ぐぅッ…!」
 ざり、と指の先が床を掻く。黒い鞣革の手袋の中では、指先が白くしなっているのだろう。砂と埃に汚れた床に頬を押しつけて口を開いていたため、口の中で砂粒がじゃりじゃりと嫌な音を立てた。
 兄さんの指がずるりと抜けたかと思うと、一息つく間もなく再び強引に捻じ込まれた。じゅぷ、ぐちゅ、と乱暴に抜き差しが繰り返され、頭がぼんやりしていく。それなのに過敏に反応してしまう己の浅ましい体に辟易した。口から勝手に漏れていく声も、醜く歪んで無様だ。
 兄さんは無言で俺の腹の中をぐちゃぐちゃと掻きまわし、時折躊躇いを噛み殺すような、声にならない声を上げる。俺と同じくらい、無様だと思った。
「に゛ぃさ……ッあ、兄さん…ッ! っひ、あ゛ァァ!」
「おまえさあ、分かってる? いま、俺に犯されてんだぜ。了解も得ず、おまえの兄さんはおまえのケツん中に指突っ込んでるわけ。分かってねえだろ」

 本当は、兄さんももう分かっているのかもしれない。俺がわざわざ人を捕ってきて、兄さんに禁じられている行為を施す理由に。
 人間を嬲り殺せば、兄さんは俺を抱いてくれる。
 目的のためなら手段を選ばない、とはよく聞く言葉だが、手段のために目的が形骸化してしまった俺は、さぞ滑稽なのだろう。兄さんに手酷く抱かれる、合意を得ずに無理矢理犯される。そのために人間を持ってきて、わざと兄さんの目の届くところで嬲り殺すのはそのためなのだと、兄さんも気付いているのだろう。
 一度踏み外してしまった階段は、あとはただ滑り落ちるのみ。
 俺は兄さんの目の前で人を殺してその血を兄さんと分けて啜り、兄さんはその行為に対するお仕置きとして俺を犯す。暗黙の了解のようになったこの図式の中で、兄さんは俺に愛を囁いたりしない。そもそも、兄さんは俺に家族愛以上の愛情は抱いていないのだろう。何百年も同じ時を過ごしてきて、そんなことに気付けないほど俺は鈍くはない。
 兄さんは俺を愛していない。
 純然たる事実がそこに横たわる。それでも俺は兄さんがほしくて、ほしくて、人を殺す。そうすれば兄さんは俺をいたぶってくれるから、俺は何度でも人を殺す。戸惑い、躊躇い、けれど努めて乱暴に俺を抱く愚かしい兄さんが、いとしくて仕方がなかった。

「ぁっぐ……ぅう゛っ! あ゛、あッ…にいさ……っ!」
 兄さんの、手袋をはずした手が後ろに撫でつけてある俺の髪を鷲掴みにする。ぐいぐいと引っ張られ、俺は床を這うようにして体をずらされた。
 悦楽にぼやける目を開けると、眼前には赤が広がっていた。頭部のない死体が作り出した赤い血だまりが目の前にあり、兄さんは俺の髪を掴んでその赤に俺の鼻先を擦りつけた。粗相をした犬を躾けるような行為に、俺は慌てて口をきつく噤む。
「ン゛ぅーッ! ん゛ぐ……!」
「おら、口開けろヴェスト。おまえが殺した女の血だ。啜れよ、犬みたいにその舌で床を舐めろ。お兄様の命令を守れない、おまえみてえな悪い子は、こうして躾けてやんねえと覚えねえもんなあ?」
 べちゃりと頬に血液が付着する。先程まであんなにもかぐわしい恐怖と苦痛の香りを放っていたそれは、腐ったような異臭を放つ代物へと変化していた。
 俺達が好むのは、生きた人間の血だ。魂のない体から流れる血液など、なんの意味もなさない。むしろ腐臭がするだけで、毒ではないにしろ、とても飲めたものではない。
「ン゛ッ、ん゛んぅッ!」
 口をかたく閉ざし、目を瞑って拒否を示すが、兄さんは聞こうとしない。ぐいぐいと頭を床に押し付けられ、口を開けて床を舐めろと再び命令される。王の命令。低くトーンを落とした声に、背筋がぞくぞくと震えた。ああ、いとしい。いとしい。
 気付けば、俺は僅かに唇に隙間を作っていた。そこから赤すぎる舌を伸ばし、床の砂や埃を含んだ死の臭いのする血液にそっと触れる。じわ、と舌先が血に濡れ、腐ったような味が口の中に広がった。
「う゛、ぇ……っ!」
「駄目だ。吐くなよ、ちゃんと舐めろ」
「ッ、……う゛ぅ…ッ!」
 まずい。気持ち悪い。命の味がしない血液など、ただの腐った体液でしかない。苦しい。胃から食道に、熱いものがせり上がってくるのを感じた。しかし俺は床に舌を這わせ続け、兄の許しが出るまでひたすら床に流れる血を啜り続けた。喉を鳴らし、砂を含んだ液体を飲み下す。
「……ッう゛ぅ、あ゛ッ、あ゛ぁ……ひッ、ッえ゛ァ…ッ!」
 ぐうっと胸の辺りが苦しくなって、俺は肩を震わせながら背を丸めて胃の中身を吐き出していた。基本的に人間が口にするような食物はあまり好んで摂取するわけではないので胃の中に固形物はなく、黄色みがかった胃液のみがびしゃびしゃと床にぶちまけられた。
 短い間隔で幾度かに分けて嘔吐し、噎せ込む俺を兄さんは冷やかに見つめていた。冷たい視線が突き刺さり、俺がおずおずと顔を上げようとすると、兄さんは忌々しげに舌打ちをひとつして俺を突き飛ばした。血だまりや胃液がぶちまけられた床とは反対側に倒れ込みながら、俺は胃液に焼かれた喉を押さえながら咳を繰り返す。
「きったねえな、誰が吐いていいつったよ」
「がは、ッ……ぅ゛ッ」
 げほげほと噎せ込んで床を這う俺を、まるで汚いものでも見るかのような兄の視線が容赦なく刺してくる。先程俺が人間の女にしたように、兄さんの足が俺の腹に乗せられた。最初は乗せるだけ、それから徐々に体重をかけ、足全体がぐりぐりと俺の鳩尾にめり込んでいった。
 苦しさに呻く俺の声は聞こえないふりをして、兄さんは俺を蹴り飛ばす。うつぶせに倒れ込んだ俺のすぐ傍にしゃがみこみ、先程掴まれたせいでほつれている短い前髪を再び掴まれた。ぐっと無理矢理上を向かされたかと思うと、俺の顔面に兄さんの唾が吐きかけられる。
「反省したか?」
 俺にそう問いかける兄さんの眉間には、苦しげに皺が寄っていた。俺を痛めつけているはずの兄さんの方が、痛めつけられている俺よりもずっと苦しそうな顔をしている。その事実に、俺はぞくりと震えが走るのを感じた。顔に吐きかけられた兄さんの唾液を指で掬い取り、ぺちゃりと唇に運ぶ。
 ふるえる唇で、俺はそっと答えをつむいだ。
 ――Neinだ、兄さん。
 ゆっくりと答えた俺に絶望したような色を湛えた兄さんの瞳が、ひどく心地良かった。


「う゛ぅーッ! ん゛ッ、ん……っぐ、ァ」
「っく、この、……駄犬がッ! 何度言っても理解しねえこの頭、叩き割ってやろうか! なあヴェスト!!」
 腹の中に兄さんの性器をくわえ込み、後ろからがつがつと突き上げられて、俺の口からは悲鳴じみた声が流れ落ちる。俺から兄さんの顔は見えないが、きっと苦しそうな顔をしているのだろう。
 俺の髪が後ろから伸びてきた兄さんの手に掴まれ、がつんと鈍い音がする。掴まれた頭を押され、俺の額が固い床に叩きつけられたのだと理解して、俺は痛みに呻いた。額と鼻を打ち付け、鼻孔からなまぬるい血液が流れるのを感じた。血を啜る俺にも血が流れているのだから、おかしな話だ。
 自棄になったように叫びながら俺の頭を床に叩きつけ、兄さんは俺の腹の中をぐちゅぐちゅと掻きまわす。突き上げられるたびに俺の口から甘ったるい声が漏れ、兄さんは苛立ったように俺の髪から手を離し、俺の腰に爪を立てた。
「い゛ぅ…、う、あ゛ァッ! あ、あっんう゛ぅ……!」
「喘いでんじゃねえ! てめえ、犯されてるって分かってねえだろ、ほんっとにキモいんだよ! 薄汚い、浅ましいヴェスト!」
「ッ……ン゛ぅっ…っは、ははは……! あ゛ァ、っ…俺の兄さん、いとしい俺の王……っふ、ぁッ、ああ゛ッ、おく、きもちい、い……ッ! っは、はぁ、……ぁん゛ッ、あ、あ、あァっ…!」
「うるせえんだよ!」
「はぁ゛ぁっ! あ゛ッ、あァ゛ー……ッ!」
 がりがりと床を掻きむしり、容赦なく叩きつけられる苦痛にも似た快楽に泣き叫んだ。大きく口を開いたため、鼻孔から流れる血が口に入って気持ち悪い。
 俺を疎む兄さんの声が心地よく、俺は開いた口からどろどろと涎を垂らして声を上げた。うるさいと罵られ、気色が悪いと蔑まれる。それすら俺の快楽を助長させる要因でしかない。
「にぃ゛さ、っあ! にいさん、もう、ぅあ゛ァ、あ、あ゛ぁー……ッ!」
 肩を大きく震わせ、俺は床にべちゃりと精液を吐き出した。兄さんはひどく苛立ったように大きく舌打ちをして、びくびく震えながら射精する俺の腰をさらにきつく掴んで中をえぐった。
 背後で僅かに呻く声がして、俺の中に埋め込まれた兄さんの性器が脈打つ。精液が俺の腹の中に注ぎこまれる感覚に俺は歓喜した。
「あ゛ぁあッ! や゛、っあぁっ、でてる、っあ゛あ、でて、ぅ゛ぅ……っ! にいさ、ぁぁ……ッ!」
 精液を吐き出しきった兄さんが、ずるりと萎え始めの性器を俺から引き抜く。それにすら声を震わせる俺にうんざりしたような溜息をつき、兄さんは衣服を整えて立ち上がった。
 性器や臀部を露出したまま固く冷たい床に蹲る俺の脇腹を小突くように蹴り、兄さんは鼻に皺を寄せて吐き捨てる。
「反省しろよ、……俺の、ヴェスト」
 かつかつと硬質な音を立てて、兄さんは暗い地下室を出て行ってしまった。ひとり残された俺はまだそこに感じる兄さんのぬくもりの幻想を抱きながら、ゆっくりと唇を歪ませた。それはおそらく、笑みの形だったのだろう。
「また……叱って、にいさん」
 床に頬をすり寄せ、俺はわらった。
 また叱って。たくさん怒って。
 そのためなら俺はなんでもするから。いくらでも殺すから。
「俺の、兄さん……」
 呟いた声に含まれていたのは、明らかな欲望と被虐心、それからまぎれもない愛であった。
 また、いのちが消えるのだろう。






end.



























+++

 Sな独の無限の可能性を模索し、迸る中二病魂に従ったらこうなりました。
 私にサドイツは無理なようだ……。





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