blood soup




「ヴェストー、腹減ったー」
 ソファに座って、コーヒーを片手に書類に目を通している男の後姿を見つけ、俺はそっと忍び寄った。背もたれ越しに抱きつくと右手の黒い水面が揺れたが零さないあたりは流石だ。
 カップをそっとテーブルに戻し、ついでに書類も置いてヴェストは俺に振り返った。
「いきなり何をするんだ」
「腹減った。なんか作れよ」
 人の話を聞け、とか何とか非難めいたものが聞こえてきたが、そんなのは無視だ。ソファを迂回するのが面倒で、ひょい、と背もたれを乗り越えてヴェストの隣に腰を落とす。行儀が悪いとかなんとか言う、呆れ気味の溜息が俺の右耳をくすぐった。
「大好きなお兄様が昼食をご所望なんだぞ、早くなんとかしろよ」
「大切な弟が仕事をしているんだ。邪魔をするな」
「邪魔じゃねえよ、兄弟のスキンシップだろー」
 三人掛けのソファは、でかい男が二人も座れば多少狭苦しい感じもする。それなのに、俺は敢えてごろん、と寝転がってヴェストの硬い太ももに頭を乗せた。肘置きから足が豪快にはみ出たが、そんなことを気にするはずが無い。
 再び書類を手に取った愛するバカ弟の顔を下から覗き込み、何度も何度もヴェスト、と呼ぶ。最初は無視を決め込んでいたらしいが、しつこく何度も呼んでいるうちに、眉間の皺が深く刻まれ、そして諦めたように溜息をついた。よし、勝った。
「わかった、分かったからどいてくれ」
「よっし! さすがヴェスト!」
 柔らかさのかけらもない膝の上に頭を乗せたままの状態で、両手を一杯に伸ばしてわしゃわしゃと弟の頭をかき混ぜた。驚いたように、うわ、と低い呻き声をあげるヴェストにはお構いナシに、俺はピッシリと撫で付けられた金髪を乱れさせてやった。
 いつ頃からだっただろう。確か、小さかったこいつがぐんぐんと成長し、俺と同じくらいの身長になりかけていた頃か。それまでは短い前髪を俺と同じような分け方で垂らしていたのに。いつの間にかこんな無愛想なオールバックにし始め、今ではそれが定着してしまっている。風呂に入るときと寝るとき以外はこんな無愛想な髪型でいることが、俺は少し不満だった。
 ぱらぱらと下りてきた前髪をちょいちょいと指先で整えてやると、うっすらと昔の面影が残る俺の愛しい弟がいた。
「ほーら、そうしてるほうが可愛いぞ」
「生憎、可愛さは求めていないのでな」
 くそ生意気で愛想のカケラも無い言葉を置いて、今や俺よりもがっちりと筋肉の付いた後姿がリビングから消えた。キッチンに向かうのだろう。俺は寝転がっていた体を跳ね起こして、その背中を追う。
 ヴェスト、と早足で背中を追いかけながら呼びかけると、やれやれ、とでも言いたげな顔で俺に振り返った。たん、と床を蹴って距離を縮め、太い二の腕に抱きつく。
「このまえイタリアちゃんが作ってたアレ、作れよ。レシピ教わったんだろ?」
「ああ、トマトの……なんと言ったかな」
「名前なんかどうでもいいからさ、チーズたくさん乗せてくれよ」
「分かった分かった」
 まったく、これではどちらが兄なのか分からないな。そう言いながら穏やかに目を細めて、ヴェストは数センチ低い位置にある俺の顔を見ていた。


 心地よく香るトマトソースとチーズのにおい。手際よく二人分の食事を用意してしまえる有能な弟を持つ兄はこれほどまでに誇らしくそして楽ができるものなんだと思った。
 くるくると麺を巻き取ったフォークを口に運ぶ俺を見るヴェストの目は、仕事をしているときの何倍も優しくて穏やかだ。俺なんかを見ていないで早く自分も食えばいいのに、と思うが、俺はそれを止めたりしない。ヴェストは俺が頼ってやらないと、心の均衡が保てないからだ。

 つい何十年か前まで、俺たちは離れていた。二人を別つのは、無粋な壁。毎夜毎夜壁に手を触れさせ、あいつの名前を呼んだ。あいつもこの壁の向こうで俺のことを想ってくれていたのだろう。もしかしたら泣いていたかもしれない。
 壁を壊したあの日、民衆の歓喜する声の中。肩で息をして、綺麗に撫で付けていたであろう前髪を乱して壁の残骸を掻き分けるようにして砂埃に目を凝らしていた。俺の姿を見つけると、途端に泣きそうになっていた。俺も同じこと。
 俺はそれでも無理矢理口を歪ませて笑顔を作り、何も言わず両手を広げた。あいつもぐしゃぐしゃに歪ませたひどい顔のまま、無言で瓦礫を蹴って俺の腕に突っ込んできた。離れていた何十年かの間でまた少し成長したごつごつの体は痛いくらいに俺を抱きしめて、俺も負けじとその体をきつく抱きしめた。
 思えばあの時から。俺はあいつがいなければ駄目だし、あいつは俺に頼られなければ駄目なようになってしまった。
 離れている間でヴェストは格段に弱くなったし、俺は驚くほど孤独に強くなった。体ばかりは頑丈だけれど、こころはずっと弱くなった。

 たとえば、今ここで俺がフォークを投げ捨て、皿をひっくり返したとしてみよう。ヴェストは怒るだろうか。礼儀や規律にはうるさい男だから、きっと怒るのだろう。つりあがった、決していいとは言えない目つきを鋭くして怒鳴り、それでも几帳面で綺麗好きな男だ、片づけを始めるに違いない。堅物だけれど優しさもあるから、突然そんなことをしでかした俺を諭すように理由を聞いてくれるかもしれない。
 けれど、そこで「おまえはもういらない。俺におまえは、必要ねえよ」と伝えてみたとしよう。その後のヴェストの反応は、手に取るように分かる。
 まず、放心。綺麗なあおい目をまん丸にして、呆けたように俺の顔を見つめる。透き通った、あお。それが俺の濁ったような赤紫色をじっと見つめて、まずは黙り込むに違いない。どうせ、頭が俺の言葉を受け入れることを拒否して、理解するのに時間がかかるだろうから。
 それから、理解すると同時に泣くに決まっている。あおい目が透明な涙をぼろぼろと流し、狂ったように叫んで頭を抱えて号泣。雄叫びのような、悲鳴のような声を上げて泣き、おかしくなってしまうんだろう。
 空の色が濁るところは、あまり見たくない。

「……なんだ、人の顔をじろじろと見て」
「おまえこそ。ほら、おまえも食えって。冷めちまうぞ」
 行儀悪くフォークでヴェストを指す。わかっている、という短い返事のあと、右手に握られたフォークがようやく動き始めた。俺が言わなければいつまでも俺を見続けていたであろう可愛い可愛い俺の弟は、表面が既に冷め始めているパスタにやっと手をつけた。
 ヴェストはマナーやルールを遵守することに命を賭けているくせに、家の中、特に俺の前では結構がさつなときが多い。乱暴にたくさん麺をまきつけたフォークを、ぐあ、と大きく口をあけて迎え入れる。赤いソースのパスタが赤い口の中に消えた。

 昔、まだヴェストが俺の両腕にすっぽりと収まってしまうほどに小さかった頃。俺は戦や仕事に追われて目が回るほどに忙しかった頃があった。昔から世話焼きだった俺の弟は、小さいながらも甲斐甲斐しく健気ともとれるほどに俺の世話を焼こうとしてくれていた。俺もそれが嬉しかったし、あいつも俺が喜ぶ顔を見るのがすきなのだと言っていた。
 ――おかえり、兄さん。仕事が忙しいのか? 夕飯、食べないと体によくないぞ。ああ、そんなところでねたらだめだ。
 疲労は人を苛立たせる。愚かしい俺は、ちいさな弟のそんな献身的な行為や言葉にすら苛立ちを覚えたことがあった。
 ちいさな手を乱暴に振り払い、「うるせえ、放っとけよ!」
 そんな心無い言葉を、を幼く純粋で、誰よりも俺を慕ってくれていた弟に投げつけたのだ。愚かだった俺。今思えば、あの頃の俺はどうかしていた。
 俺の苛立ちを受けた弟は、目をまん丸に開き、しばらく呆然としたあと何かを呟いて部屋から駆け出して行ってしまった。ごめん、と呟いて。俺はそんな弟の後姿には目もくれず、苛立ちのままに髪をがりがりと掻いてソファに身を沈めた。
 しばらくして冷静になると、寒い部屋のテーブルには何枚か皿が置かれ、冷え切った料理が鎮座していることに気づいた。あのちいさな体で、ちいさな手が、これを作ったのだろう。俺が好きなものばかりが、精一杯並べられていた。
 ――俺は、ばかだ。
 ソファから跳ね起きて部屋を飛び出し、弟の部屋まで走った。広い家の長い廊下が、あのときばかりは恨めしかった。
 ノックもなしに、乱暴に弟の部屋のドアを開く。蝶番が悲鳴を上げていた。びくんっ、と大きく体をすくませて、小さな体が震えるようにしておずおずと顔を上げた。本来は綺麗に澄んだ空の色をしているはずの瞳が、どろりと濁っているように見えた。泣いていたからだ。
 俺はすぐさま弟の細くて頼りない体を抱きしめ、ごめん、と何度も誤った。弟もか細い声を震わせながら、「にいさん、ごめんなさい」と何度も何度も呟いていた。
 おまえは謝る必要なんて無い。そう言ったのに、弟はどうネガティブな考えに至ったのか、「いらないって言わないでくれ」と泣いた。いらないなんて、言うはずが無いのに。
 俺は何度も謝り、しゃくりあげる弟の額や頬に宥めるようなキスをたくさんしてやった。
 その時に、決して手放さないと誓った。命を賭けて守るのだと、誓ったはずだったのに。

 多くの国によって俺たちは分断された。そのせいも相まってか、再会した俺の可愛いヴェストは以前よりも依存度が高くなっていた。最近それは、ひどくなる一方だ。
 表面上は何も問題ない。俺がヴェストに甘えるようにしてワガママを言ってヴェストを困らせ、たまにくされ貴族に喧嘩を売ってヴェストを悩ませる。俺はそうすることでヴェストに依存して、ヴェストは俺に依存されることでこころを保っている。
 一度は守りきれなかった、愛しい俺の半身。今度こそ手放さない。俺から離れるなんて、許さない。


 ふと思い出したようにフォークを置き、ヴェストは席を立つ。なんだよ、と背中に声をかければ振り返る弟。
「まあ、待っていろ」
 キッチンに引っ込んでしまったヴェストに首をかしげながらも、俺はパスタを咀嚼することに全神経を注ぐ。料理が上手くて、綺麗好きで、貯蓄上手。まる主婦だな、と揶揄してやろうという気も失せるほど、ヴェストの作る料理は俺の舌に見事に合っている。
 うまいなあ、とあまり本人には伝えない感想を抱きながら皿の中身を胃に収めていた俺の前に、とん、と浅い皿が置かれた。ヴェストが二人分のスープ皿を持って戻ってきたらしい。
「お、なんだスープも作ったのか?」
「ああ」
 早速それに手を伸ばし、スプーンですくって一口流し込む。あたたかい液体が、俺の一部となるために舌を撫でて食道を流れていった。

「あー、ヴェストもスープで煮込んで食っちまえれば良かったのに」
 全てきれいに空にした皿を重ねながら、俺はぼそりと呟いた。俺が重ねた皿を両手に持って椅子から立ち上がり、ヴェストは愛しげに溜息をつく。
「……そうか」
 片付けのためにキッチンに向かうヴェストを追う。何か手伝うわけでもなく、大きな冷蔵庫に寄りかかって洗い物を始めたヴェストの広くてがっしりとした背中を見ていた。
 陶器や金属の擦れる音といくらかの水音。
 シンクのすぐそばにあるガスコンロの上には鍋が乗っていて、たぶんまだ先程のスープが残っているのだろうことを窺わせた。その鍋の横に、ナイフが転がっている。果物ナイフ、だろうか。無用心にもむき出しになっている刃は、見慣れた赤いものがべっとりと付いていた。
「昔はこーんなちっちゃかったのに、なんっでこんなでかくなりやがったんだよ」
「早く追いつきたくて、鍛錬を欠かさなかったからだろう」
「俺に?」
「……さあな」
 上着を着ていないため露になっているうなじと、髪が短いために見えている耳が僅かに赤くなったのを俺は見逃さなかった。ヴェストに気づかれないように笑って、俺は冷蔵庫の前の床に直接座り込んだ。
「こんなにでかくちゃ、食いきるまで時間かかるだろ」
「その話はまだ続いていたのか」
「髪は細かく刻んで煮込めばいけるだろ。目は……折角の綺麗な色なんだから、そのまま齧りてえな。内臓は腐る前にさっさと焼いて食うか。肉は煮たり焼いたり、あとヴルストにもできるかな。あ、腸も使って100%ヴェストのヴルストって出来るんじゃねえ? よし、それだな。問題は爪と歯と骨か」
 洗い物が終わったのか、両手から水気を払って振り返るヴェストは、やっぱり穏やかな顔をしていた。
 部屋に戻ろうとするヴェストの背中にべったりと引っ付くが、ヴェストは軽々と俺を引きずって無理矢理部屋のソファに戻った。仕方なく、倣ってソファに座り込む。
「乾燥させて、細かく粉末状に砕いてスープか何かに混ぜたらどうだ?」
「お、それだ! さすがヴェスト、ただの筋肉バカじゃねえな」
 視界が揺れる。
「殴るぞ」
「殴ってから言うのやめろ」
 左手で拳骨を食らわせてきたくそ生意気な弟は、そ知らぬ顔でテレビをつけた。クソ、かわいくねえ。
 俺も大概大人気ないとは思うが、そんなモン知るか。反撃、とばかりにソファに膝立ちになり、ヴェストに上から覆いかぶさるようにして唇に噛み付いてやった。くちびるに、あまく歯を立てる。
「ん、ッ……」
「ほんと。おまえがこんなに、キスしたくなるほど可愛いヤツじゃなけりゃとっくに殺して血の一滴も余さず啜って食ってやってるのに」
 がりっ、とヴェストの唇から血が出るほどにきつく噛むと、ヴェストは痛みに片目を瞑る。そしてその直後、普段は無愛想で笑い方のぎこちない弟が、きれいにきれいに、本当に心から嬉しそうに、にっこりと笑った。
 唇から流れ出た血は、さっき飲んだスープと同じ味がした。










end.











































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 う す ぐ ら い … … !
 双方やんでれですみません。




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