しずり雪




 その「かみさま」がいるのは、百人単位のちいさな村。ちいさな村のちいさな神社に、ちいさなかみさまがいる。雪が朝日を跳ね返すようなまっしろな彼は、その村に住むかみさまだった。
「るつ、さみい!!」
「そんな薄着で外に出るからだ。ほら兄さん、上着を」
「それ重たいからやだー」
 どう見てもこどもにしか見えない、ちいさなかみさま。それを、兄と呼ぶ男がいた。
 るつ、と呼ばれた彼の体躯は逞しく、かみさまよりもずっと年上のような姿をしているのに、彼はかみさまを兄と呼んだ。かみさまが彼を弟だと言ったのだから、それは事実になった。かみさまの言葉は絶対だったからだ。

 元々、彼はヒトだった。ちいさな村の平凡な家庭に生まれた。
 彼は少しだけ不思議なこどもだった。大人には見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりした。そのせいで、気味悪がられたこともあった。同年代のこどもは彼を鬼の子だと言い、近付かなくなった。きんいろの髪もあおい目も、周囲のこどもたちは持っていなかったから、きっと外見も怖がられたのだろう。彼は、少しだけ不思議だけれど、普通のこどもだった。
 ひとりぼっちで遊ぶことには慣れていた。短い手足をいっぱい振って、山を駆けたり川に下りたりして、村のすこし外れた場所にある神社に辿りついた。ここは村のかみさまがいる場所だからむやみに踏み込んではいけないと大人に言われたことがあったが、神聖であるがゆえに人の近付かないその神社は、彼の絶好の隠れ家であり、遊び場になった。
 天気のいい日は境内の大木に登り、雨の日は社の庇の下で空を眺めていた。村の子らの心ない言葉に傷ついたときはそこで静かに泣いていた。神社が、彼の居場所だった。

 ある日のことだった。
 その日はよく晴れた寒い日で、涙に濡れた頬が冷えた風に晒されて痛かったことをよく覚えている。
「……おまえ、だれ?」
 まっしろなこどもがいた。まっしろな髪、まっしろな肌、唯一色を持っているのは、まっかな瞳だけ。彼と同年代くらいの幼い少年が、うずくまって泣いている彼の目の前に立っていた。村では見ない顔だった。
「なんでここにいんの? おまえ、だれ? 村のやつ?」
 しゃくりあげるばかりで上手く言葉が出せない彼は、村の住人なのかという少年の問いに首を縦に振ることでかろうじて答えることが出来た。ふうん、と呟いて、少年は興味を失ったかのように彼に背を向けた。身に付けている装束もまっしろで、少年は後ろを向いてしまったら色のついている部分が何一つなくなってしまった。雪が降っていたら、きっとあの少年がどこにいるのかなんて分からなくなってしまう。
「……オマエ、腹減ってる?」
 こくん。
「じゃあこれやる」
 少年が差し出したのは、社に供えられていた饅頭だった。それはだめ、それはかみさまのだから、たべちゃだめ。ぐすぐすと洟を啜りながらもなんとか涙は止まり、彼はたどたどしく言葉を落として首を横に振った。かみさまにおこられる。
「別に、んなことで怒るわけねーだろ。カミサマなめんな、そこまで心せまくねーよ」
 ほら、と強引に押し付けられた饅頭を断り切れず、彼はおそるおそる口に運んでひとくち齧った。あまい。あまいものはこの村では貴重品で、その貴重なものが真っ先に向けられる先はこの神社だった。かみさまに捧げられた供物を口にしている、とても罰あたりな行為だと、彼は思っていた。ごめんなさい、と心の中で謝りながらも、生まれてこのかたほとんど口にしたことのない饅頭の甘さに、もぐもぐと忙しなく口を動かしていた。
「うまい?」
 こくん。
「そっか」
 まっしろい少年は、彼が嬉しそうに饅頭を頬張って頷く姿を見て、くすくすと笑っていた。

 彼はひとりぼっちではなくなった。
 神社に行くと、必ずまっしろい少年がいるようになった。名を名乗ったが、長くて呼びにくい、と一刀両断され、彼は少年に「るつ」と二文字で呼ばれることになってしまった。あだ名をつけられたのは初めてで、彼はどうしていいか分からなかった。あだ名をつけてくれるようなともだちは、初めてだった。
 ともだち。ともだち。初めての響きがくすぐったくて、嬉しかった。
 少年も名乗ってくれたが、長いので「ぎる」と呼ぶことにした。少年が彼にしたのと同じ行為を返してやると、少年はくすぐったそうに笑っていた。
「あだ名なんかつけられたの、初めてだぜー……」
 照れたように笑う「ぎる」に、「るつ」は、おれもだ、と笑って見せた。

 「ぎる」は不思議な少年だった。「るつ」と同じくらいの年齢のはずなのに、彼よりもずっとずっと物知りだった。村の成り立ちや、歴史、村の外のことまで、まるで見てきたかのようによく知っていた。
 彼らはとても仲良しになった。いちばんのともだちで、ともだちすら超えるほど、お互いが大好きになった。だから、きょうだいになることにした。
「おれさまが兄貴な!」
「……おれのほうが、背が高いぞ」
「いーの! おれさまの方が強いし、かっこいいからな!」
「しかたないな……にいさん、?」
「おう!!」
 簡単に「きょうだい」になってしまった彼らを咎めるものはいなかった。こっそりときょうだいになった、という、誰かと秘密を共有するという行為は、彼にとって初めての経験だった。
 「ぎる」は、……「にいさん」は、彼の知らないことをたくさん知っていて、彼の知らなかったことをたくさん教えてくれる。草笛の吹き方も、小川で泳ぐ魚を捕まえる方法も、境内になっている美味しい木の実の見分け方も、ぜんぶ「兄」が教えてくれた。

 ひとりぼっちだった彼は、毎日のように兄と神社の境内で遊んでいた。もうひとりぼっちではなかった。村のこどもに気味悪がられ、暴言や石を投げられても泣かなくなった。相変わらず、見えないものは見えたし、聞こえないものも聞こえたが、それを言葉にすることはなくなった。これは言うべきではない事なのだということを覚えた。
 いつものように境内で遊んでいると、母親の声がした。鳥居の辺りに母親が立っていて、呆れたようにこちらを見ていた。なにしてるの、と少しだけ咎めるような声音で言われ、遊んでいた、と素直に告げると、ここはかみさまの場所だからあそんじゃいけませんよ、と叱られた。
 ごめんなさい。しゅんと項垂れると、母親は彼の手を引いて、さあ帰りますよ、と歩きだした。
「まって、にいさ……ともだちがいるんだ、さよならって言わないと」
 母親に握られた手を引っ張り、お社の方を振り返る。兄が、それまで彼と一緒に使って遊んでいた毬を抱えてこちらに手を振っていた。ばいばい、またね。彼も手を振り返すと、母親が彼の頭上で大きなため息をついた。
 この子は、またそんなことを言って……誰もいないじゃない。呆れたような母親の声に、彼は弾かれたようにその顔を見上げる。そうして、ああ、と心の中にすとんと何かが落ちてきた。
「……そっか」
 いつものこと、だったのだ。

 気付いてしまってからしばらく、彼は神社に足を運ぶことは無かった。母親に咎められたこともあり、彼は家の中に引きこもりがちになった。相変わらず見えないものは見えたし、聞こえないものも聞こえた。それらは浮いたり沈んだり現れたり消えたり彼に話しかけたりしてきたが、見えないし聞こえないふりをした。
 そうして家の中で過ごしていたが、数日ののち、彼は神社へ向かった。境内では兄がお社の庇の下にしゃがみこんでいた。むくれた顔をぷいっと背け、おせーよ、と一言だけ呟いた。彼が謝ると、おまえの饅頭今日は半分だからな、と拗ねたような口調が告げてきた。兄なりの、彼への罰だったようだ。
 彼らの毎日は戻り、またふたりで過ごす日々を送った。

 しかし、それも長くは続かなかった。
 一年経つと、元々兄よりも高かった身長が更に伸びた。
 もう一年経つと、兄より早く走れるようになった。
 さらにもう一年経つと、兄より声が低くなって大人のような声になった。
 何よりも、見えないものが見えなくなったし、聞こえないものも聞こえなくなってきた。見えないものは紗をかけたように薄ぼんやりとした輪郭でしか見えなくなり、聞こえないものはざあざあとうるさい雨音にかき消されるかのように聞きとりにくくなった。
 村の子らとのわだかまりも歳を重ねるごとに薄れ、普通から少し外れた彼の外見を受け入れられるようになってきたようだった。周囲に溶け込むすべを身につけていくと同時に、彼は見えるものが少なくなってきた。
 兄は相変わらずまっしろで、ちいさくて、幼い姿のままだった。
 兄のいる神社には毎日とは言わずともあまり日をあけずに通っていたが、時折姿を現さない日があった。それが数日続くと、ああ、兄が現れないんじゃない、俺が兄の姿を見ることが出来ていないだけなのだ、ということに気付いてしまった。
「……おまえ、もうくんな」
「……」
 本当は、どうして、と叫びたかった。けれどそうやって叫んだところで返ってくる言葉は分かりきっていたし、その言葉を兄の口から聞きたくなかった。だから、物分かりのいいふりをして、無言でうなずいて神社を立ち去った。兄との、初めてのともだちとの、別れだった。

 そうして、数年が経った。彼は逞しい体躯の青年に成長し、村の長を補佐する役目についていた。見えないものはもう完全に見えないし、聞こえないものはもう一切聞こえなくなっていた。
 あるとき、村の長が病に倒れた。彼は長の行うべき仕事を代わりにこなし、懸命に働いた。村の長の仕事には、村のかみさまがいる神社の境内へ供物を捧げに行くというものもあった。長が倒れた今、それをするのは彼の役目だった。
 まあるい、ちいさな饅頭。子供の頃、「兄」と呼んでいた少年とこれを分け合って食べていたことを思い出し、胸が痛くなった。彼は今も、お社の庇の下で膝を抱えて座っているのだろうか。
 もしかしたら、という淡い期待を抱いて供物をお社に奉納したが、結局あのまっしろな姿を見ることはできなかった。

 病に倒れていた村の長が亡くなり、彼が次代の長として選ばれて間もなく、流行病が村中を覆った。先代の長と同じ病で村人が次々と亡くなる中、彼も同じ病に倒れた。三日三晩高熱に苦しみ、彼のいのちが消える、その直前に、まっしろな光が彼を覆う。
「……にい、さん」
 現れたのは、兄だった。子供の頃に見た、幼いままの姿。拗ねるように眉間に皺を寄せ、唇を尖らせた「兄」は床に臥せる彼の胸倉をそのちいさな手で掴んだ。
「勝手に死のうとしてんじゃねえ、それでも俺の「弟」か!」
 昔、不注意で転んだ時に手を差し伸べられ、ちゃんとしろ、と怒られた時と同じ気持ちが彼の胸に広がり、もう声を出すこともできないまま、彼は笑った。かわらないな、あなたは。おまえだってなんにも変わってねーよ、馬鹿弟。
「いいか、おまえは俺の弟だ」
 こくん。
 初めて「兄」に出会ったとき、泣きじゃくってまともに喋れず、頷くことでしか意思表示が出来なかったことを思い出した。おそらく、兄も。
「俺のだろ。おまえの全部、俺のもんだ。そうだろ?」
 こくん。
「……じゃあ、決まりだ」

 それから先のことは、あまり覚えていない。



「兄さん、ほら上着」
「うー……別にいいだろ、おれさま、かみさまなんだぜ。風邪なんかひかねーよ」
「駄目だ。寒いのだろう? なら上着を着てくれ」
「るつのガンコモノ」
 ぶう、と頬を膨らませ、兄は大人しく上着に袖を通し、お社の外に飛び出した。外は雪が積もっており、赤い染め模様の入った上着を着ていなければ、このまっしろな景色の中で見失ってしまいそうだと思った。たしか、何百年も昔、同じようなことを考えていた気がする。
 彼はくすくすと笑い、雪に触れては冷たい冷たいと騒ぐ兄の後姿を眺めていた。
 お社に供えられたまあるい饅頭を片手に戻ってきた兄は、それを半分に割って彼に差し出してくる。
「るつ、るーっつ! ほら、はんぶんこな!」
「……ああ、ありがとう兄さん」
「うまいか?」
 こくん。
「そっか!」
 飛び跳ねるようにして嬉しそうに笑う兄と一緒に饅頭を頬張った。
 ちいさな村のちいさな神社に住むちいさなかみさまと、その弟の、はなし。



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