子羊の文句




 おまえの声、低いから、……眠くなるなあ。低く響く声が好きなのだと、兄に言われたことがある。眠そうにぽつぽつ呟いていたとき、兄のまぶたは既にほとんど下がりきっており、意識もふわふわとしているのだろうと容易に想像がつく状態だった。きっと覚えていない。覚えていたとしても、兄自身は何も気にしていないのだろう。おそらく何も考えずに言った言葉だ。
 兄はいつもそうだ。自分の放った一言が、どれほど俺を戸惑わせうろたえさせるのかなんて、全く考えていない。抗議したところで、なぜかへらりと口元を緩ませて、『おまえはほんと、俺が大好きだなあ』と髪をぐしゃぐしゃに撫でられて誤魔化されてしまうため、抗議すること自体をやめてしまった。その言葉を否定する気は全く、これっぽっちも、ひとかけらもないが、やはり気恥かしい。
 兄は本当に、ばかだと思う。いつも言っているのに、寝るときは毛布を肩までかけずに寝てしまうし(別に心配しているわけではない)、早く帰って来いと言っているのに夜遅くまで遊び回るし(別に寂しがっているわけではない)、俺のことを理屈っぽいだなんて言っては色々と怠けるようないい加減な行動ばかりとるし(別にその世話を焼くことを楽しんでいるなんてことはない)、ほんとうに、あのひとはばかだと思う。
 うまいメシと、温かいベッド。それを、兄は『幸せすぎるんじゃねえの』だなんて、ばかげたことを言っていた。ほんとうに、あのひとはなんてばかなんだろう。美味い食事を用意してくれるのは兄さんだし、ベッドを温かくしているのだって兄さんだ。あのひとは体温が低いくせに、俺を抱き寄せてすうすう眠り始めるととても温かくなる。兄と同じベッドで眠っているときと、自分のベッドでひとりで眠っているときを比較すると、前者の方が格段に温かいのだから、きっと兄は特殊な体質なのだろう。あのひとと眠ったときほど心地良い睡眠をとる方法を、俺は知らない。
 美味い食事も温かいベッドも自分で用意するくせに、それを『しあわせすぎる』だなんて言ってほしくなかった。この程度で、自分で作り出せる程度の『しあわせ』とやらで満足してもらっては俺が困る。兄さんには、もっと幸せになってもらわなければいけないというのに、現状に満足されてはどうしていいのか分からなくなってしまう。
 そこまで考えて、ああ、なんだ、と納得する。俺は兄さんに幸せになってもらいたいわけではなく、兄さんを幸せにしたいだけなのだな、と思うと、それがすとんと心の中に落ちてきた。夢の中でさえも俺のために羊を寝かしつけようとしてくれていた、俺だけの兄さん。俺以外があのひとをしあわせにするということ自体が許せないだけなのだろうなと考えると、自分はなんと子供っぽいんだろうという思いと、あのひとが好きすぎる自分自身に苦笑する。
 とりあえず、勝手に幸せになって勝手に俺のベッドを占領して眠っているばかな兄さんの安眠を妨害してやるためにも、仕事を終わらせたばかりの机を離れようと思った。手始めに、毛布を引っぺがしてもぐりこんで文句を言ってやろう。勝手に幸せになるな、俺があなたを幸せにするんだ、と言ったら兄はどんな顔をするだろうか。

――『どんなにうまいメシと温かいベッドがあっても、おまえがいなきゃ意味ないよ』なんて言われるまで、あと五分。



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