閉じて、螺旋





 ある国の、ある町。それなりに人で賑わう町は海がなく、森と畑と大きな川があちこちにあるような、そんな場所だった。果物を抱えた町娘が小走りに路地を駆け、足音に驚いた猫が背中の毛を逆立てて屋根の上に消える。赤茶けたレンガ造りの建物の向こうに広がる、何もない道を車が走っているのが見えた。青く底のない空の下、気の遠くなるような緑豊かな景色をひとつの人工物が走る姿は一枚の絵のようだった。

 町からずっとずっと、ずっと離れた場所。森がすぐ傍に控え、町に暮らす人は誰一人として近づこうとしない、そんな場所に彼はいた。
 ギルベルト・バイルシュミット。ぎんいろの髪はにぶくランプの光を跳ね返し、空と同じくそこの見えない、それでいて空とは正反対の色をしたあかい瞳はいつもぼんやりと遠くを見ている。おとぎ話に出てくるような、強い風に吹かれたら吹き飛ばされてしまうのではないかと不安になるほどの小屋に、彼は住んでいる。生きるために最低限必要なものと、気が狂いそうなほどの量の本と共に、彼は暮らしていた。誰の目にも触れないように、その目に誰も移さないように、ギルベルトは本に囲まれて生きていた。
 まだ朝日も昇りきらない時間に起きて、霞のかかる森をふらふらと彷徨うように散歩し、朝日が昇り切る前に帰ってくる。握りこぶしよりも小さくて、眉間に皺が寄るほど固いパンを齧り、冷えたスープを温め直すこともせずに啜ってギルベルトの朝食は終了する。まぶしい朝日が窓から差し込み始めると、ギルベルトは乱暴に分厚いカーテンを引いて光を遮断してしまう。そうしてランプをつけ、仄暗い部屋の中で煌々と輝くランプを光源に、大きなゆったりした椅子に座って本を読み始める。あるときは、一日に何十冊も。あるときは、一冊の本を何十日もかけて。ギルベルトは本を読み、時折自分自身もペンを取って紙の上に黒いインクでカリカリと文字を刻む。気付けば三日三晩机に向かい続けていたなんてことも、よくあることだ。
 ギルベルトの書くものは本の形になっており、彼の本は町の大きな本屋には必ずと言っていいほど平積みにされているものだったが、ギルベルト自身はそんなことに全く興味はなかった。自分の書いた言葉が紙の束になり、それがどこかへもたらされてどこかで誰かに読まれ、いつの間にか彼の手元にまとまった金が届いている。少し不思議な現象、としか思っていなかった。
 ギルベルトは、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなかった。安寧と狂気に頬を撫でられながら毎日を過ごすことが嫌いなわけではなかったが、ただ、自分が生きているとは言えないなとぼんやり思っていた。別に死んでも構わないと彼自身は思っていたが、そう呟くと目に涙をいっぱいに溜めて怒る子がいるから、ギルベルトはできるだけそれを口にしないようにしていた。
 彼には弟がいる。ルートヴィッヒと名のついた、太陽のようなきんいろの髪と、兄が焦がれるほどに望んでも手に入れることは敵わない、空の色の瞳。兄とは似ても似つかない色合いの彼は、けれどまぎれもなくギルベルトの弟であり、ギルベルトが言葉を交わせる、唯一の人間だった。
 ギルベルトは人が嫌いだった。ヒトが嫌いで、セカイが嫌いで、ヒトの住むセカイを切り離して自分は消えた。誰も近づかない場所に逃げ、生きようとする気力など感じられないほどの物しか持たないままこの場所での生活を始めたギルベルト。ここで暮らし始めて、もう何年になるだろうか。彼が未だこの場所で食事をし睡眠をし呼吸をしていること自体が奇跡のようでもあった。
 それを支えていたのが、弟のルートヴィッヒだった。
「兄さん。……また部屋をこんなに暗くして」
 蝶番の軋む音と、ギルベルトの目を焼く光。ルートヴィッヒがギルベルトの元を訪れたのは、今月に入ってこれで三度目だった。
「……おう、入れ入れ。んで早くソレ閉めてくれ、まぶしくて死にそう」
「容易に死ぬだなんて言わないでくれ」
「んー、うん、ごめん」
 ばたん、と、そんなに力を込めたわけでもないのにドアがうるさく音を立てて閉まった。ルートヴィッヒがこの小屋を訪れた際の定位置、兄のすぐ傍に置かれた椅子の上にクッションを敷いて、そこに座る。ギルベルトは一度だけ上げた顔をまたすぐ机の上に戻し、カリカリとペン先で紙を引っ掻き始めた。今日は、創作をする日、らしい。
 兄さん、とルートヴィッヒが声をかけても、ギルベルトは『うん』『あー』『あとで』などの短い言葉のみでしか返事をせず、左手に持ったペンだけがガリガリガリガリ、耳をふさぎたくなるほどの音を立てていた。こうなってしまったギルベルトは、元から誰の言葉も受け入れないのに、更に弟の言葉までシャットアウトしてしまう。ルートヴィッヒは、この状態の兄が少しだけ苦手だった。
「今日は、少し多めにパンを持ってきた。それから日持ちする食料もいくらか持ってきたから、棚に入れておくぞ」
「んー」
「缶詰もあるが、どうせ食べないのだろう? あとでシチューを作るから、温かいうちに食べてくれ」
「……ああ、うん」
 ふう、とため息をついたのはルートヴィッヒだった。
 ギルベルトは、朝の散歩以外に自分から外へ行こうとはしない。頼まれても外へ出ることは少なく、そもそも人に会うことを心の底から嫌っていた。そんな彼が、町で買い物をして食料を調達しようとするはずもない。その彼に食べ物を、日用品を、生きるために必要なものを買い与えるのはルートヴィッヒの役目だった。
 ルートヴィッヒは、ここから一番近い町(とは言え、車を何時間も走らせなければならないほど遠くにある場所)の出版社に勤めていた。ギルベルトが気まぐれにペンを握って生み出す言葉の羅列を孕んだ紙を抱え、ルートヴィッヒが自身の勤める出版社に持ち込んだのがきっかけだった。ギルベルト自身は自分の吐き出した言葉に興味を持たなかったが、ルートヴィッヒはギルベルトの生み出す言葉が好きだった。愛していた。勿論、兄自身のことも。
「ローデリヒもエリザベータも、あなたのことを心配していたぞ。たまには姿を見せたらどうだ?」
 ルートヴィッヒは、ギルベルトはどうせ聞いていないだろうと、彼がこの小さな空間に閉じこもってしまう前に交流のあった人間の名を出してやる。途端、ギルベルトはそれまで机を抉りそうなほどの筆圧で押しつけていたペンを机に叩きつけ、真っ赤な目をぎろりと睨ませてルートヴィッヒを射抜いた。
「名前、聞きたくねえ。ヒトの名前なんて嫌いだ。ヴェスト、俺は何度も言ったよなあ?」
 ギルベルトは、ルートヴィッヒを『ヴェスト』と呼ぶ。彼らの言語で西を意味する単語が、この部屋の中でのルートヴィッヒの名前だった。ギルベルトはヒトが嫌いで、個人を指すヒトの名前に憎しみすら抱いているようだった。だからギルベルトはルートヴィッヒの名を呼ばないし、自分のこともギルベルトとは呼ばせなかった。兄さん、ヴェスト。それがここでの彼らの呼び名だった。
「……すまない」
「うん、いい子。おいでヴェスト、ちゅうしてやる」
 ペンを放り出し、ギルベルトが両腕を広げる。日に当たることがほとんど皆無に近い彼の腕はまっしろで、細くて、体格のいいルートヴィッヒが少し力を込めれば簡単にへし折れてしまいそうだった。
 ルートヴィッヒは椅子を立ち上がり、ギルベルトにそっと近づいた。その両手の中に収まろうにも彼の体は大きく、床に膝をついてギルベルトの足元に跪き、その太ももの上に頭を乗せる程度のことしかできなかった。ギルベルトの白い指がルートヴィッヒの髪をぐしゃりと撫で、ギルベルトを見上げたルートヴィッヒの唇にギルベルトの冷たい唇が降りてきた。ちいさく触れた薄い皮膚。もっと深くまで触れようと舌を伸ばしたが、ギルベルトはすぐに離れてしまった。
「に、いさん……」
「はい、おしまい。はらへったよヴェスト。シチュー、つくってくれるんだろ? にんじんが沢山入ってるのがいいな、おまえのシチューは美味いから好きだよ。一緒に食べような、おまえが作ってる間に一本書き終わるから、ソレ持ってっていいし」
 ちゅ、とルートヴィッヒの額に唇をつけ、ギルベルトは笑う。滅多に見せない笑顔。ここ数年で、彼の笑顔を見たのはきっと自分だけなのだろうと思うと、ルートヴィッヒは自然と唇がほころんでいた。優越感と、いとしさと、もしかしたらそれ以外の、庇護欲じみたものもあったのかもしれない。
 ルートヴィッヒはギルベルトが好きだった。人里離れた場所に暮らす兄。ルートヴィッヒがいなければ食べることもままならずに死んでしまうギルベルト。ルートヴィッヒは、彼のことを愛していた。

 ギルベルトにしては珍しくパンもサラダも平らげて、ルートヴィッヒの作ったシチューを食べ終えた。ギルベルトが言葉を叩きつけた紙の束を抱えたルートヴィッヒが小屋の扉を開けるころには、もう外は真っ暗になっていた。この場所は星がよく見えるが、夜も外に出ることはないギルベルトには関係のないことだった。
「……また来るよ、兄さん」
 ルートヴィッヒは、そう微笑んでギルベルトに背を向ける。唇はにたりと歪み、空の色をした瞳に星はなく、薄暗い感情を抱えて彼は小屋を後にした。
 今度は、今日渡した食料が尽きるころに来よう。俺がいないと死んでしまう兄さん、俺意外とは言葉を交わすことさえ嫌がる兄さん、俺しか頼れない兄さん。いとしい、にいさん。
 ルートヴィッヒの手のひらの中でそんな感情がむくむくと育ち、ルートヴィッヒの中に消えていく。車に乗り込み、星の瞬く空の下、長い長い道を走らせながら、ルートヴィッヒは少しだけ声を立てて笑った。




end.

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