ぬけみち






 ふと気付けば部室の中は朱色に塗りたくられ、西向きの少しだけ開いた窓から射す光がチカチカと俺のまぶたを焼いていた。眼鏡のフレームを掴んで顔から外し、目頭をごしごしと擦ると乾いた眼球が僅かな痛みをもたらした。ふう、と意図せず漏れた溜息は思ったよりも軽く、自分が意識しているほど体が疲労しているわけではないことに気付かされた。集中して使い続けていた目の疲労と、単純に眼鏡を外したことで視力を支えるものがなくなったためにぼやける視界。世界と俺の視界の間に透明なガラスを挟むと、安っぽい机が西日を反射して俺に届けてくる光すら鮮明に見えた。俯いて手元を見ていたために凝り固まった首をぐっと後ろに反らし、左右にぐらぐらと傾けて筋肉の緊張をほぐそうとした。
「だぁから、15分に1回は休憩をとれって言ったろ」
 ぽん、と突然両肩に感じたささやかな重みと、何よりもいきなり声をかけられたことに驚いて、俺の口からは間抜けな声が転がり落ちていった。慌てて振り返ると、朱色の光のせいでオレンジ色に見える銀髪の持ち主が、悪戯っぽく細められた赤い目を俺に向けて笑いかけているのが見えた。
「に、にいさん……?」
 両肩に置かれた手のひらに徐々に力がこもっていくのを、制服越しの肌が感じ取る。ぐ、っと押したかと思えばすぐに力をゆるめ、また優しく筋肉を押される。振り返ろうとする俺の頭をぐいぐいと胸で押し、椅子の背もたれを挟んで後ろからぺたりと体をくっつけてくる兄さんの体温は、残念なことに伝わってこなかった。秋の涼しい気候に合わせた、薄手のカーディガンとブレザーをこれほどまでに憎く思ったことはない。
 俺の肩を揉んでいたかと思えば、今度はその両手がするりと前に回される。俺の胸元で手首を交差させて、後ろからぎゅっと抱きしめてくれる兄さんの腕に頬をすり寄せた。
「新聞記事書いてたんだろ? お疲れ。ちゃんと休憩とれって言ってんのに、ほんとおまえは集中するとダメだな」
「……うるさい、自覚しているんだ。あまり言わないでくれ」
「はいはい。それで? 他の部員はどうしたよ」
 俺の頭に顎を乗せ、抱きしめた腕をゆるめた兄さんの手が俺の目の前を横切る。その指先がぐにぐにと俺の頬をつつくが、それに抗議しても無駄だと知っているため何も言わないでおいた。無駄だと知っているし、それに、……やめてほしいとも思っていないから、尚更だ。
「ああ、あいつらは先に帰らせた。編集は俺の仕事だし、待たせても悪いと思ってな」
「ふうん。別にあいつらは気にしないだろ、そういうの。むしろ先に帰っちまう方を嫌がりそうだけどな」
 同じ部の友人を思い浮かべ、ああ、確かに、と苦笑する。しかしやはり、意味もなく待たせてしまうのは申し訳ないと思い先に帰したのだが、それは正しい選択だったのだと今をもってはっきりと自覚する。人前でも平気で触れてきたり抱きついてきたりするこのひとだが、それでも人の目があるときと無いときでは触れ方が全然違う。友人を邪魔者扱いする気は全くないが、やはり、人目がなくて良かったと思ってしまうくらいには、俺は性格が悪いらしい。
「兄さんは何をしてたんだ? 今日は先に帰ってくれと言ったはずだが……」
「クソ髭野郎にな、書類の整理押し付けられたんだよ。あいつ、一応生徒会なんて似合わないもんやってるだろ? なぁにが『おまえはその性格からは想像もできないほど地味な作業が得意だよねえ』だクソが。昼にあいつからのアイスなんか受け取るんじゃなかったぜ……」
 ぶつぶつと恨めしげにつぶやく兄さんに苦笑すると同時に、俺の気分が、かたんと音を立ててひとつ下がったのを感じた。自分でも理由が分からない気分の落ち込みに眉を寄せながら後ろに体重をかけ、背後にいる兄さんにぐっと体を押し付ける。兄さんはそれまでこぼしていた悪友への不満をぷつりと途切れさせ、一瞬の沈黙ののちにくすくすと楽しそうに笑い始めた。どうしたんだ、と問えば、兄さんはやはり楽しそうに嬉しそうに、それでいて少し困ったように笑う。
「おまえ、ほんっと……あーもう、かっわいいな!」
 片手で俺の胸元を引き寄せ、片手でわしゃわしゃと俺の髪を掻き混ぜるように撫でる兄さんに、俺はぎゅっと目をつぶった。整髪料で固めてある髪を無遠慮に乱され、それに文句を言おうとするものの上手く言葉が出てこない。にいさん、にいさん、とその俺よりずっと細い腕をべちべちと叩くことで抗議した。
「そんなの口実だよ、おまえのこと迎えに来るための時間つぶしだって」
 かたん。また、気分が音を立てる。しかし今度は急激に浮上していくそれに、自分自身の感情が追いついてこなかった。……もしかして俺は、「兄さんが俺を待っていてくれたわけではない」という事実に不機嫌になり、本当は「兄さんが俺を待っていてくれた」のだということに喜んでいる、のだろうか。まさか、そんな。
「ち、違う……!」
「何が『違う』なんだ?」
「だ、だって、それは……そんなの、俺がただの……っ!」
 慌てて口元を押さえる。両手のひらで押さえた唇は、勝手にゆるんでにやけた形をとり、それをこらえようと必死に筋肉を動かしてなんとも不格好な形になっていた。
「そうだよ、おまえは、俺の一番が全部自分じゃないと気が済まない、わがままな子だよ。知らなかったのか? 俺はずっと前から知ってるぜ」
 兄さんの手が、するりと俺の肩に下りてくる。ブレザー越しに肩を撫で、とん、と指先で肌を叩かれた。とん、とん、ゆったりとしたリズムで指先が俺の肩を叩き、それに気をとられている間に兄さんの顔が俺のすぐ横に置かれていた。俺の肩に顎を乗せ、その視線から逃げようと兄さんがいる方から顔を背けたが、じわじわと火照る耳の裏に、兄さんのつめたい唇がそっと押し当てられた。
「わがままなヴェスト。こっち向けよ」
 音の受容器に声を直接流し込まれるような感覚に、俺はぎゅっと目を閉じて耐える。それがさらに聴覚を鋭敏にする行動だと気付いた時には、もう手遅れだった。ヴェスト、俺の可愛い弟、と、聞いているこちらがむず痒くなるような言葉を、このひとは恥ずかしげもなく囁いてくる。口元を押さえた手のひらは、にやけてしまうだらしない口を隠すという当初の目的を既に失っており、今や勝手に漏れそうになる甘ったるい恥ずかしい声を押さえるためという目的しか持っていなかった。その手の甲を、兄さんのひんやりとした指先が撫でる。
「ほら、これ外して、こっち向けって」
 甘い命令に抗おうと、今にも頷いてしまいそうな首を、ほどけてしまいそうな手を叱咤して、必死に首を横に振る。
「いいのか? 今、俺の言うこと聞いてこっち向けば、キスしてやるのに。誰もいないとは言え、ここは学校で、部室で、ドアは半開き。俺は、普段絶対しないような、こんな場所で……ヴェストとキス、してえんだけどな」
 唾液を飲み下す音が、兄さんにも聞こえてしまっただろうか。腕は勝手に力を失って落ちていき、首はおずおずと兄さんを振り返る。振り返った先、至近距離にある兄さんの唇に俺の吐息が触れ、近づいてきたそれを目を閉じて受け止めた。
 少しだけ開いた窓の隙間から秋の風が吹き、カーテンを揺らして半開きのドアから出ていった。



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