冬に言葉と二枚のガラス(冬コミ無料配布)
本を読んでいた。書庫から持ち出した、古い本だ。ドイツの本好きは兄譲りであり、現在読んでいる本をしまってあった書庫は兄専用のものだった。自分専用の書庫にたくさんの本棚を詰め込み、そこに今まで集めた本を丁寧に分類して収納してある様は、さすがドイツの兄、とでも言うべき光景だった。本棚には古今東西あらゆる書籍が詰め込まれており、古い哲学書から先週発売された官能小説まで様々だ。その中から一冊抜き取って読み始めたのだが、古い印刷物であるその本のインクは掠れ気味で読み取りにくく、また書いてある文章も年代を感じられるほど硬く難解であった。
ドイツは生まれて日も浅い(兄と比べれば、の話だ。既に逞しく立派に成長し、体格や力は兄を凌駕したものの、やはり生きてきた年数や狡猾さを含めた頭の回転の速さは彼に遠く及ばないと、ドイツは思っていた)。ドイツの中に蓄積された知識はさほど多くなく(これも兄と比べてのことだ)、その彼は本から知識を得るために更に本を得ることを好んだ。知らない単語、事象、言い回し。それらが現れ、ドイツは本に栞を挟んで椅子から立ち上がった。本を携えて向かう先は、兄の書庫。
紙とインクと埃のにおいが充満する書庫は、いつ訪れてもしんと静まり返っており、夏でもひんやりと空気が淀んでいる。淀む、というよりは、長い年月をかけて積もった知識が文字の形をとり、それらが目に見えない空気となってこの書庫の天井から床までを埋め尽くしているのだろうと、なんとなく思った。
冷えた空気を攪拌するように足を進め、本を携えたままドイツの慎重よりもずっと高い本棚を見上げる。丁寧に分類されているのだが、その分類の仕方は独特で、いかにもひねくれたプロイセンらしいなと苦笑いした。その半面、分類と整理をしたプロイセン本人以外が見てもてんでばらばら、不規則に本を突っ込んであるようにしか見えない沢山の本棚の中から目当ての本を見つけることは難しい。本を探すためには結局のところ端から順に本棚を見上げてひとつひとつ本の背表紙をなぞっていくことが、目当ての本を見つけるための一番の近道だった。
ドイツは自分よりも背の高い本棚を見上げ、本棚を埋め尽くす本の背表紙をひとつひとつ目で追っていると、不意に本以外のシルエットが視界に入った。本棚を見上げすぎて痛くなった首を戻し、その影を追って視線を落とす。
兄が、いた。
眼鏡をかけ、床に直接座り込んで、大きな本棚に背を預けて本を読んでいた。俯いて姿勢の悪くなっている兄の視線の先には文字の羅列があり、同時に、兄の視界にはそれ以外なにも映ってはいないのだろう。ドイツは、胸のどこかよくわからない場所をざわざわと撫でられるような不快な感じを受けた。膝を立て、そこに本を置いてガラスを一枚隔てた状態で眼球だけをしきりに動かす。時折唇がもぞもぞと動くが、音を発することはなかった。同じ、薄暗い書庫にいるというのに、そこだけが切り取られた別の場所のように見えて、ドイツはぎゅっと口を引き結んだ。
こつん。つま先で兄の足を蹴り、ん、と短く喉を鳴らして数回の瞬きののちに、ゆっくりとこちらを見上げた。レンズの向こうのあかい目は、光の少ない書庫内では暗く見えた。
「お、ぉ……? あれ、ヴェスト何してんだ。っていうか、お兄様を蹴るとは何事だ愚弟が」
「ご機嫌麗しゅうクソ兄貴。兄さんこそ何をしているんだ、何もこんな寒いところで読まなくとも、本を読むなら部屋に行けばいいだろう」
「あー、うん、俺もそう思う」
読んでいた本を両手で閉じ、よっこいせ、と妙に気の抜ける声とともに立ち上がる兄を、ドイツはため息とともに見つめた。
「……さみ」
「そんな薄着をしていれば当然だ」
ややサイズの大きめなシャツ一枚だけを隔ててプロイセンの肩に手を置くと、ドイツの手のひらに冷えた肌の温度が伝わってきた。想像していたよりずっと冷たい。
「いつからいたんだ」
「ヴェストがさっき俺の書庫に入りたいっつって、本探して、持ってったときからずっと」
「数時間経っているじゃないか!」
「あ、マジ? そんなに経ってるか?」
はあ、とこれ見よがしに大きくため息をついて、ドイツはプロイセンの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。髪もひんやりと冷たく、書庫の暗い灯りを鈍く反射するぎんいろの髪がまるで氷の束のようだとドイツは思った。こんなに冷たくして、と子を叱る母親のような気持ちで、ドイツは特に何も考えず唇でその氷の束に触れた。書庫の埃っぽいにおいを孕んだその髪はドイツの唇を冷やす。
「おま、……あーもう、おまえなあ」
「……何か?」
なにか、じゃねえよ。困ったようにドイツの額を手のひらで叩き、くすくすと笑うプロイセンにドイツは首をかしげる。何か兄を困らせるようなことをしただろうか。そう問うてもプロイセンは困ったような表情のまま笑うばかりで答えようとはしなかった。答える代りにプロイセンは両手を広げ、ドイツの背中に腕を回して冷えた体をぴったりと弟にくっつけた。
「……本当に冷たいな。風邪でも引いたらどうするんだ」
「んなにヤワじゃねえよ」
両手で兄の体をぎゅっと包むと、元々体温があまり高くないプロイセンの体が芯まで冷え切っているのが伝わってきた。あったけえ、と呟いた冷たい唇が、ドイツの唇から体温を奪った。
「ん、……っ」
一度触れただけですぐに離れてしまった唇を追いかけ、自分よりいくらか細い体に回した腕の力を強めて抱き寄せた。こら、とやわらかく咎める声に眉をひそめ、ドイツは兄の唇に甘く噛みついた。上から押さえこむようにして舌を押し込むと、かちゃりと音を立てて兄の眼鏡がドイツの顔に当たる。
「……兄さん、眼鏡が邪魔だ」
「うん? いーじゃん別に。おまえ好きだろ? 眼鏡かけてる俺様のこと」
「随分な自信だな」
「だって、おまえ俺のこと好きじゃん」
指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、にたりと少し低い位置から意地の悪い笑みをドイツに向ける。くすくすと上機嫌に喉を揺らすプロイセンが、ドイツの唇を親指で押さえた。指の先で口を薄く押し開かれ、ひんやりと冷たい指が押し込まれる。舌に触れる指は少し埃っぽかった。
「ん、……にい、さん」
ゆっくりと顔が近付いてきて、唇同士が触れる、その寸前でぴたりと動きが止まり、目の前の顔がにたりと意地悪に笑った。レンズの向こうの赤がいたずらに揺れる。
「さ、部屋に戻るか。おいでヴェスト、風邪引いちまうぜぇ?」
腕の中からするりと抜け出し、ドイツの温かい手をプロイセンの冷たい手が引いた。それに文句を言うことも抗うこともできないのだから、いかに自分が兄に弱いかを思い知ってドイツは甘いため息をついた。
END.